歌劇・歌曲と日本語

いわゆるクラシック音楽作品で、歌詞のあるものの多くはイタリア語(歌劇に多い)、ドイツ語(歌曲に多い)、フランス語、ラテン語(宗教曲に多い)、ロシア語、あっても英語である。宗教曲におけるラテン語の歌詞は、短いものも多く、ほとんどの音楽家にとって母語ではないから、日本語話者がラテン語をテクストにした曲を作っても不自然ではない。しかし、歌曲・歌劇ともなると、テキストは長く、よりイントネーションやアクセントに影響されるため、その言語をよくよく知っていなければ、作曲は難しい。かつて、モーツァルトも「後宮からの誘拐」までは、イタリア語の歌劇を書いていたわけだから、外国語の歌曲・歌劇というのも不可能ではないはずだ。しかし、ドイツ、フランス、ロシアがそれぞれ自国語での歌曲・歌劇を開拓していったように日本でも日本語による歌曲・歌劇が欲しいと思う。日本語による歌曲・歌劇はもちろん存在する。特に、合唱曲にいたってはかなりの数の作品が作られている。しかし、私見ではそれらの作品は、1.外国語的音楽にむりやり日本語を当てている2.民謡の引用3.セリフ的で音楽的でないのいずれかにあてはまると思う(かなり乱暴だが)。1.はイタリア語オペラやドイツ語の歌曲を模した音楽に日本語をあてはめているものであり、訳詞を歌ってるようにしか思えない。それでいいならいいけど。2.はよくあるパターン。民謡はその言語に適したつくりだから参考にするのは当然。国民楽派の人たちも民謡の収集を熱心にやっていた。しかし、単に民謡に当たり障りのない和声をあてるだけでは、外国人が聴いても稚拙で、所詮アンコールピース止まりだ。それを消化(昇華)して、自らの語法とできたのが国民楽派の人たちなのだろう。3.合唱曲に多い。はっきりいって恥ずかしい。私が唯一、日本語のテキストで手放し賞賛できる曲は、黛俊郎氏の「涅槃交響曲」だ(テキストは声明だから厳密には日本語ではないが、非ヨーロッパ・ロシア系言語という事で許してください。)。この曲では、声明を、かなり原型をとどめたままで使用しているが、うまく消化して、抹香臭さより、黛的世界観が勝っている。「涅槃交響曲」や、国民楽派の手法を見るに、真に日本語の歌曲・歌劇を作るならば、やはり日本の伝統的な音楽を学ぶ事が重要であろう。仏教における声明・読経、雅楽の歌曲、俗楽の歌曲・浪曲、歌舞伎や狂言、能の節回しなど、素材は膨大にある。こうした試みは、ともするとナショナリズムに捉えられてしまいがちだが、自分が小さな頃から受容している音楽を深く知る事は自然な事だろうし、なにより新しい音楽の可能性がみえているのだから、しなければ勿体ない、と思う。

追記(2007.3.28)先日、パリ・オペラ座で歌舞伎が上演されたらしい。そのニュースを見ていたら、フランスの客が「歌や踊り、芝居が融合していて素晴らしかった」というようなことを言っていた。日本人の私からすると「歌?歌舞伎って歌ったっけ?」と思ったが、「節回し」というのは、外国から見たら歌以外のなんでもないのだろう。確かに、アリアほどではないが、レチタティーボよりは歌に近いと思う。やはり、日本語の歌劇を作るなら、歌舞伎などを研究すべきだ、と感じた。