山本容子さんの話をきいてきた。

三重県四日市市にある絵本・児童書店「メリーゴーランド」で、銅版画家の山本容子さんの講演会をきいてきました。

写真でお顔は拝見した事があるので、大体こんな感じの人だろうなーと思っていたら、予想よりもっとエネルギッシュな人でした。53歳には見えない、というか思えない。自信に満ちて、いい笑顔で、包容力を感じさせるステキな人です。

以下は、内容を覚え書き。最近は記憶がどんどん消えていくからね・・・。

なお、あくまでも、私の記憶、私の解釈ですので、山本容子さんの言いたかったこととは違う部分もあるでしょうから留意してください。

○本物を観る

 現代では絵画などの作品を、印刷物や、画像で観ることが多いけど、やはり本物を観なきゃいけない。エッチング作品の僅かなインクの盛り上がりや、プレートマーク(銅版の角の痕跡)から、そこにかけられたものすごい圧力を感じ事が出来る。キャンバスの端からは、表面には見えてこない地色が窺える。作家の制作過程を想うのは、作品鑑賞の重要でおもしろいポイントの一つである。

 また、それと関連して、時代背景・文化的背景を知る事も必要。昔の西洋画が総じて暗い印象なのは、実際に灯りが少なかった事と無関係ではない。更に、その作品の描かれた環境、温度、湿度、周りの音なども、作品鑑賞には本来必要なものである。

○新しい事を

 今まで、誰かがやってきた事や、流行のものをやってもおもしろくない。それは誰でもできる事だから。まだ誰もやっていない事、流行とは違う方向のものがおもしろい。それは自分の作品にも言えて、一つ評判のよいものが出来たからといって、同じものばかりを作り続けるのは、「スタイル」ではなく「怠惰」である。

 ちなみに、山本容子さんは「ピカソにはカミソリの替え刃やバンドエイドは描けなかっただろう」という事で、カミソリの替え刃ばかり描いた作品や、バンドエイドばかり描いた作品を描いている(笑)。もちろんそれに固執しなかった訳だが。

○おもむくままに - 絵画的表現

 山本容子さんは、下書き・下絵を描かないそうだ。それどころか、描き始めた時点でも、全体の構図があるわけではない。描いているうちに思いつきがあったり、遊びを入れたり、面倒くさくなってきたり、失敗があったり、そういったものが全て完成した作品のなかに含まれている。そうして、写真などでは絶対にありえない、ある意味もっとも絵画的な絵画ができあがる。

 また、人物画を描くときも、顔を似せる事は考えず、自分の中にあるその人のイメージを描く。だから、そのイメージを共有していれば、「顔は似てないけど、絶対あの人だ」となるわけである。その人にとっては写真よりも「似ている」のである。

 人物に限らず、人は視点を自由に動かしてものを観るわけだから、一つのものを観るのにも複数の視点があって当然(キュビズムですね)。写真のように客観的に描く必要はない。

他にも、色々お話があったのですが、まとめられないので箇条書きでお茶を濁します(笑)。

・「ラスコーの洞窟画で一時間は喋れる」(笑)

 大きな絵は牛一頭5mくらいあるとか、箇所によって色々な技法で描かれているとか、岩の凸凹を利用した絵があるとか、、下手な絵は上から違う絵が描かれているとか、5000年に渡って書き続けられていたとか、環境までも完全に再現した「ラスコーII」なるものがあるとか・・・。

・絵画は重要な非言語表現

 現代では言語表現のみが重視されすぎている。昔、識字率の低かった頃は、瓦版や絵巻物など、絵は情報伝達の手段としても必要不可欠なものだった。今は挿絵や図版があっても、言語表現の下に隷属するものが多い。

・最後の絵

 病院で寝ている人には無機質な白い天井しか見えない。お父さんが亡くなって、そのベッドに寝た時に、最後にみたものがあまりに寂しい事にショックを受けた。その関係で中部ろいさい病院の病室の天井に天井画を描いた。とはいえ、一日中動く事のできない患者にとっては、観たい時も観たくない時もあるだろうから、手元に調光器も設置されている。

また、講演を通して感じたことは、とても勉強家で聡明な方だな、という印象でした。とても直感的に描くのに、そこに至るために色々なものを見聞きする。当然といえば当然だが、おそらくその量はもの凄く膨大なのだろうという事が、言葉の節々から感じられました。

いやー、とてもよい体験でした。サインと握手もしてもらったし(笑)。

数年前に、和歌山で個展を見てとても好きなったのですが、それ以来、本物を観ることはできていない・・・また是非観たいですな。