先日、文学と感覚について考えた(※)時にも思ったことだが、文学は芸術として認識されている(よね?)のにも関わらず、音楽や美術とは異なる点が多い。今回は教育について考えよう。
音楽や美術の高等教育といえば芸術大学が思い浮かぶ。そこでの教育の多くは、実践家になるための教育である。音楽なら演奏者や作曲者、美術なら画家や彫刻家などを育てるわけだ。当然、音楽学や美学を学ぶ場合もあるが主流とはいえない。
一方で文学の高等教育といえば文学部・人文学部だろうか。しかし、こちらは実践家ではなく研究家となるための教育である。文学専攻の学生が文を書くための勉強をしているわけではないのだ。
高等教育でなくとも、同様の構図がある。小学校〜高校(普通科)では、美術(図工)や音楽の授業は実践を学ぶが、国語は読解が主体である。作文もしないではないが、特に高校に進むにつれ、機会は少なくなる。
こうした状況を生んだ要因として、2つ考えてみた。
一つは、作文技術の軽視である。
作文は、特殊な教育を受けなくとも、多くの人が日常的に行っている。
口語的な文章が市民権を得ていることもあり、「アイデアさえあれば書ける」と多くの人がなんとなく思っているのではなかろうか(実際、素人が書いたとしか思えない文章が世間にはたくさんある)。
しかし、小説でも、エッセイでも、論文でも、人に読ませられる(これは高い評価を受ける、という意味ではなく、「違和感なく」読ませられる、程度の意味)文章を作るのは難しい。これは独創性の問題ではなく、「技術」の問題であると考えられる。
読みやすい文章を作るための「技術」は確かに存在する。論文であれば、論理的な展開とそのための言葉使い、小説でも地の文の主体を統一するとか、起承転結の構成などは確実に伝達可能な技術であろう。しかし、こうした技術の伝達や理論化は、音楽・美術に比べ、貧弱に思える。
もう一つは、伝統的な師弟関係である。
音楽や美術では伝統的な師弟関係がある。〜流・〜派というのが多数あり(「〜」には人名が入る)、しっかりした師弟関係が伺える。音楽家や美術家の経歴にもよく「〜氏に師事」とよく書かれている。こうした師弟関係がそのまま芸術大学での教育に継承されていったことは想像に難くない。
一方で、文学においては(実はよく知らないのだが)、あまり師弟関係がないように見える。そのため、「文学を教える」ということが一般化していないのではなかろうか。
芸術実践家の育成を高等教育機関でやるべきか、という問題は置いておいても、文学の創作技術教育は貧弱だ。美術・音楽とともに、伝達可能な技術は教育にとりいれるべきだとおもうが、どうだろうか(そう、美術・音楽に関しても小〜高校(普通科)の教育は本当に貧弱だ。独創性うんぬん言う前に、基本的な技術や能力をつけるのは当然だと思うのだが・・・)。