ゲームだからこそできる表現

昨今のゲームは、ハードの能力が大幅に上がった事により、様々な表現ができるようになった・・・はずだ。しかし、実際にプレイヤーを感動させられるような表現がどれだけあるだろうか。

昨今のゲームの特徴の一つとして、各要素の分離化があるように思う。シナリオはムービーなり、会話パートに収められ、プレイヤーは見ているだけ。それが、プレーヤーが操作する「遊び部分」の間に挟まれている。複雑化するシナリオ、システムをプレイヤーに受容させるためには合理的なのかも知れないが、どうも違和感を感じる。シナリオを「見せられ」、「はい、じゃあ次はゲームやってね」と言われているような気になってくる。

舞台と遊びが分離するなら、完全に分離してしまえばいい。舞台は映画に、遊びは純粋なゲームになればよい。2つが分離不可能であることこそが、感動できるゲームの要素であると思う。具体的には、プレイヤーの操作によって起こる感情と、ゲーム内のキャラクターの感情がシンクロする事が、ゲームならではの感動を引き起こす。

このことが成功している例として、2つの例を挙げたい。どちらも私の大好きなゲームの1シーンである。大いにネタバレがあるので、白文字にしておく。

1つはファイナルファンタジーIII。序盤に冒険した舞台が「浮遊大陸」である事を知り、軽〜い男デッシュの犠牲により(いかにも死ななさそうな性格のキャラクターが死んでしまうのは余計ショック・・・)、より広い世界へと旅立つ。しかしその世界は一面の海。もの悲しい音楽をバックに飛空艇の「パタパタ」というプロペラ音が静かに響く。プレイヤーがいくら飛空艇を動かしても、海しか見えない。このときに感じた寂しさは本物だった。

もう一つはICO。終盤、ヨルダと離ればなれとなったイコ。それまで、考えようによっては足手まといとも言えるヨルダと離れ、頭を悩まされる事なく着々と先に進んでいく。しかし、もともと静かな世界はヨルダを失う事でより静かになる。声の一つも発しない。手を繋いだ時の僅かな胸の高まりもない。そして、プレイヤーにとっても、ヨルダが居ない事で最後までセーブをすることが許されない。この不安、寂しさは徐々に、激しく高まっていき、ついに石化したヨルダを見つけ、絶望する。

他にも、半分たわむれに選んだ選択肢で、あまりにもあっけなく人を殺めてしまい、さらに誰にも咎められない事で、強い罪悪感を感じる、ロマンシング・サガのイベントなどもゲームならではの疑似体験であろう。

それに対し、メタルギア・ソリッド2のように感触だけはリアルになるのに、ゲームの中ではそれが当然のものとして扱われるゲームは、キャラクターとプレイヤーとの乖離が強まり、感動どころかゲームをするのが厭になったり、せっかくの疑似感覚が麻痺してしまう。(まあ、メタルギアの問題はもっと別のところにあると思うが・・・)

ゲームにしかできない表現、ゲームでしか得る事のできない感動を、もっと追求して欲しいと思う。