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社会
修理。
- 2008年2月17日 4:30 AM
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昨日、原付のスパークプラグを交換した。モーターサイクルをいじくるのは初めてだったので、不安だったが、問題なく作業を終えた。一発でエンジンがかかるのは気持ちいい。
私のように、それほどバイクに興味のない人の多くは、エンジンがかからなくなったら、まあ、バイク屋に持って行くのが普通だろう。そのほうがラクだし、安全だ。自転車のタイヤがパンクしたときなんかも、自分で修理する人は結構少ないらしい。
でも、私はこうしたちょっとした修理を自分でやるのが好きだ。安くすむとか、壊れたものを持って行くのが面倒とかの理由もあるが、一部でも機構を理解し、得た知識を実践するのは楽しい。
そもそも、昔から私は分解が好きだった。近所のゴミ捨て場に電化製品が落ちていれば、その場で開けてみたり、家で捨てることになったPCを分解しまくったりしていた。分解して見つけた「お気に入り」の部品は、いまだに小物入れに入っている(ベアリングの入ったのや、小さくまとまった基盤が嬉しい)。
そのうちに、ビデオデッキやレコードプレイヤ、ゲームのコントローラなんかを直すようにもなって、単なる分解よりは多少ましになった。このへんで修理が好きになってきたんだと思う。
しかし、近年、修理不可能なものが多くなってきている気がする。電子部品が多くなったということもあるが、修理を前提としない設計や体制になってきたように思えるのだ。
昔(10年くらい前?)は、電機店には修理コーナがあった。家電なんかを持ち込めば、そこで修理してもらえたものだ。最近では、メーカによる修理の窓口しかなくなっている。メーカでなければ修理(というか部品交換)ができなくなっているのだ。
私は学生時代、カシオの電子辞書を使用していたのだが、ある時、蝶番にあたる部分が折れてしまった。外装が壊れただけなので、電子辞書としては使える状態である。そこで、外装の部分だけ購入できないか、問い合わせたのだが、修理するので送って下さいの一点張り。その時は講義で毎週使っていたので、できれば修理に出したくない、と言ってもダメだった。
以前、ヤマハのキーボードの鍵が折れた時は、ヤマハに問い合わせ、該当する鍵だけを購入し、自宅で修理できたので、大体どこでもこういう対応をしてくれるのかと思っていたので、残念だった。
今後はこういうことが増えてきそうでやだなー。
100年前のカラー写真。
- 2008年1月7日 9:13 PM
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いま、NHK-BS1の「BS世界のドキュメンタリー」で、フランスの大富豪アルベール・カーン氏を取り上げている。
カーン氏は、証券取引で儲けた資金で、カメラマンを世界中に派遣し、72000枚のカラー写真と4000枚のモノクロ写真、100時間に及ぶビデオ映像を残したそうだ。19世紀末から20世紀初頭の話である。
彼は、当時実用化したばかりのカラー写真とビデオで、世界中の、それも主に庶民の文化・生活を記録し、市民に広く知らしめることで、他(多)文化への理解を深めさせ、国際協調を目指したのだ。うーむ、金持ちはこういう金の使い方をしてほしいものだ。
現代の我々が見る過去の映像というのは、ある時点からはモノクロ写真が中心となり、さらに古くなると、絵でしか見ることができない。それらはもちろん、当時の生活をかいま見る貴重な資料だが、自分たちの世界からは隔絶しているようにも感じる。
このドキュメンタリー(の第1回)で、初めて見た100年前のカラー写真は、鮮やかで、そして身近に感じた。いま、我々が生きているこの世界と確かにつながっているのだ、と。
また、上記のような理由で撮られた映像なので、映画やニュース、芸術目的の写真とは異なり、人々の生活が自然に記録されている。これも、この人たちは確かに生きていたのだと思える要因の一つかもしれない。
さらに、そんなこととは関係なく、このカラー写真たちは美しい。被写体も良いが、カメラマンも巧い。そして、当時のカラーフィルムの特性だろうか、灰色がかっているのに、ものすごく鮮やかな色が出ている。懐古趣味でなく、本当に美しい。
このカーン・コレクション。ドキュメンタリーでは長らく人の目に触れなかったと言われてたけど、今はどこかで見られるのだろうか。デジタル化して、ネットで見られるようになれば、カーン氏の思想を体現することにもなると思うのだがどうか。単に私の希望でもあるけど。
食文化の復興と惣菜屋。
- 2007年11月15日 5:49 AM
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スーパー、コンビニ、ファーストフードの浸透で、日本の食文化は危機を迎えている。
魚や野菜が人気ないのも、おいしい食材が手に入れにくくなっているからだと思う。コンビニやファーストフードのメシはどれもまずいし、スーパーに行っても、おいしそうな食材(特に魚)に出会いにくい。
むろん、卸や市場、そこまでいかなくとも、昔ながらの商店街の魚屋や八百屋にはそうした良質の食材があるだろう。しかし、たとえば一人暮らしの人間が、毎日、商店街に赴き、手の込んだ料理を自ら作る、というのはあまりにも理想に過ぎ、一般的でない。
であれば、惣菜屋が救世主となるのではないか。
地元の商店街などから、よい食材を仕入れ、栄養価を考え、舌を鍛えることを意識した惣菜を作る。品数を抑え、日によってメニューをローテーションすることで、過剰生産を抑え、栄養管理もしやすくなるはずだ。
客としても、ファーストフードやコンビニと同じ利便性を持ちながら、うまいものが食えて、栄養の心配もしなくてよい、となれば、結構人気が出そうな気がする。
こうした惣菜屋チェーンが実現すれば、日本の食文化レベルはあがり、健康にもなるのではないか、と素人は思う。
マスメディアも、高級食材を無駄に使った料理や、B級グルメばかり追いかけてちゃいかんですよ。
小沢氏党首辞職会見とその反応について。
- 2007年11月4日 6:54 PM
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久しぶりに政治関連の記事。
小沢氏が民主党首を辞した。
そのこと自体についてどうこう言うのは、自分の政治に対する関心の薄さを露呈することにしかならないと思うので、やめておく。今回、気になったのは小沢氏のマスコミ批判とそれに対するマスコミの反応である。
今日(11/4)の記者会見で、小沢氏はかなり露骨にマスコミの報道姿勢に対して批判した。時間的にもかなりの部分をそれに当てていたし、質疑応答でも発言の端々に滲み出ていた。
しかし、それに対するマスコミの反応はどうだっただろう。
あれだけ、痛烈に批判されたなら、質疑応答で何らかの反応があるかと思ったが、関連した質問は何も出なかった。まあ、限られた質疑の時間で、他に訊くべき質問があったのは理解できる。
問題は、ネットでの報道である。
Googleニュースから7つくらいのニュースソースをチェックしたが、このマスコミ批判について触れられた記事を、遂に見つけられなかった(11/4 18時時点、全てのニュースソースを精査したわけではないが、普段は複数のニュースソースをチェックすることさえ少ない)。まだ、速報的な報道が多いとはいえ、あれだけの時間を割いて語られたことが、全く触れられていないというのはどうだ。
そもそも、私がこのニュースを知ったのは会見が終わってからである。TVでは相変わらず断片的な報道しかしていないので、会見を見ていた父から話を聞き、確認のためネットで情報を探したのだ。しかし、ネットでの報道ではマスコミ批判について全く触れられていないことに驚き、民主党のウェブサイトからノーカットの記者会見映像(※2009年8月現在リンク切れしている)を見た次第である。もし、父から話を聞いていなかったら、ここまで調べることもなかっただろうから、マスコミ批判発言の存在自体気づかなかっただろう。
日頃、情報の信頼性に常に疑問を抱くよう心がけていたが、ここまで恣意的な報道が行われているのならば、正確な情報を得るのは本当に難しい。もはや、日常的には不可能と言ってもいい。
真にジャーナリズムの発現たる報道がなされるためには、どうすればいいのだろうか。今回、民主党のウェブサイトでノーカットの会見映像を見られたように、ネットが一つの突破口になりうるとは思うのだが。
追記:翌日(11/5)の朝刊での報道状況
まずは、小沢氏に批判されなかった2紙。
- 朝日新聞:マスコミ批判発言について触れず。
- 日本経済新聞:5面に会見での発言を全文掲載。それ以外では触れず。
以下、それ以外。
- 読売新聞:1面で強く批判・反論。
- 毎日新聞:29面で否定的に報道。
- 産経新聞:5面でやや否定的報道。
結構、違いが出てますね。日経の全文掲載はすばらしい姿勢だと思う。なお、掲載面は地方や版により異なる可能性がある。
追記
「辞した」って書いたけど、戻ってきましたね。なんだかなあ。
辞職会見後の民主党の人たちの反応が的外れに思えたのは私だけか?
文学のための教育。
- 2007年11月3日 2:29 AM
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先日、文学と感覚について考えた(※)時にも思ったことだが、文学は芸術として認識されている(よね?)のにも関わらず、音楽や美術とは異なる点が多い。今回は教育について考えよう。
音楽や美術の高等教育といえば芸術大学が思い浮かぶ。そこでの教育の多くは、実践家になるための教育である。音楽なら演奏者や作曲者、美術なら画家や彫刻家などを育てるわけだ。当然、音楽学や美学を学ぶ場合もあるが主流とはいえない。
一方で文学の高等教育といえば文学部・人文学部だろうか。しかし、こちらは実践家ではなく研究家となるための教育である。文学専攻の学生が文を書くための勉強をしているわけではないのだ。
高等教育でなくとも、同様の構図がある。小学校〜高校(普通科)では、美術(図工)や音楽の授業は実践を学ぶが、国語は読解が主体である。作文もしないではないが、特に高校に進むにつれ、機会は少なくなる。
こうした状況を生んだ要因として、2つ考えてみた。
一つは、作文技術の軽視である。
作文は、特殊な教育を受けなくとも、多くの人が日常的に行っている。
口語的な文章が市民権を得ていることもあり、「アイデアさえあれば書ける」と多くの人がなんとなく思っているのではなかろうか(実際、素人が書いたとしか思えない文章が世間にはたくさんある)。
しかし、小説でも、エッセイでも、論文でも、人に読ませられる(これは高い評価を受ける、という意味ではなく、「違和感なく」読ませられる、程度の意味)文章を作るのは難しい。これは独創性の問題ではなく、「技術」の問題であると考えられる。
読みやすい文章を作るための「技術」は確かに存在する。論文であれば、論理的な展開とそのための言葉使い、小説でも地の文の主体を統一するとか、起承転結の構成などは確実に伝達可能な技術であろう。しかし、こうした技術の伝達や理論化は、音楽・美術に比べ、貧弱に思える。
もう一つは、伝統的な師弟関係である。
音楽や美術では伝統的な師弟関係がある。〜流・〜派というのが多数あり(「〜」には人名が入る)、しっかりした師弟関係が伺える。音楽家や美術家の経歴にもよく「〜氏に師事」とよく書かれている。こうした師弟関係がそのまま芸術大学での教育に継承されていったことは想像に難くない。
一方で、文学においては(実はよく知らないのだが)、あまり師弟関係がないように見える。そのため、「文学を教える」ということが一般化していないのではなかろうか。
芸術実践家の育成を高等教育機関でやるべきか、という問題は置いておいても、文学の創作技術教育は貧弱だ。美術・音楽とともに、伝達可能な技術は教育にとりいれるべきだとおもうが、どうだろうか(そう、美術・音楽に関しても小〜高校(普通科)の教育は本当に貧弱だ。独創性うんぬん言う前に、基本的な技術や能力をつけるのは当然だと思うのだが・・・)。
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